北軽井沢の歴史
「戦後の発展と別荘ブーム」
戦後の1951年(昭和26年)、一連の特別都市計画法の一つである「軽井沢国際親善文化観光都市建設法」により軽井沢町は別府・熱海・伊東・奈良・京都・松江・芦屋・松山と共に国際観光文化都市に指定され、国の支援も受け軽井沢のリゾート開発は引き続き進展した。
1956年(昭和31年)には西武資本により「軽井沢スケートセンター」(2009年(平成21年)3月31日閉鎖)と「南軽井沢ゴルフ場」(1971年(昭和46年)に軽井沢72ゴルフの一部となる)が開業。
東急資本も戦前から軽井沢の開発に参入し、1945年(昭和20年)には草軽電気鉄道を傘下に収めた。戦後の復興を背景に西武資本と東急資本による軽井沢を舞台としたリゾート開発競争が激化。
国土計画は三越百貨店と提携し、三越店舗でレイクニュータウン別荘地を分譲販売した。旧軽井沢や千ヶ滝に比べ割安(とは言え十分贅沢品の価格)であったこともあり、高度経済成長と相まって、生活に余裕が出たサラリーマンなど中間層を中心に飛ぶように売れ、別荘ブームが起こった。
「避暑地北軽井沢の別荘地の歴史の始まり」
1923年(大正12年)、旧制第一高等学校(東京帝国大学の予科)の同窓生らの団体「一匡社」が、草軽電気鉄道の勧めにより会員や家族の保養のために応桑に「一匡村」と称する共同名義による山小屋風の別荘群を建設・運営した。一匡村は後の別荘地のようなレジャー用の分譲地ではなく、食事・風呂等は共同、勉強会を開くなど、自給自足的な生活を送る場であったが、避暑地北軽井沢の別荘地の歴史の始まりであった。
元々この辺りは「地蔵川」という地名であったが、「大学村」の関係者が隣接する「軽井沢」の北に位置することからこの地を「北軽井沢」と呼び始めた。それに倣うように草軽電気鉄道の駅名も、1927年(昭和2年)に「大学村」の寄贈により駅舎を改築したことから、その際に「地蔵川駅」から「北軽井沢駅」(旧北軽井沢駅舎は現存、下記参照)へと改称された。駅舎正面の欄間には、「大学村」の開村に関わりの深い「法政大学」の頭文字である“H”が刻まれている。1960年(昭和35年)4月に、新軽井沢 – 上州三原間の草軽電気鉄道が廃止された後も、「北軽井沢」の駅名は草軽交通のバスターミナル名(現在はバス停のみ)に継承され、地名として定着していった。
「大学村」以外においては軽井沢町内のリゾート開発と同様、西武(箱根土地)・東急など大手資本が既に大正時代からこの地にも目を付け、別荘地開発を行った。戦後は三井不動産が大規模開発を手掛けている。長野原町の成立後は、同町大字地蔵川、または大字地蔵堂、大字応桑大屋原などとなったが、「北軽井沢」という名称が旧北軽井沢駅舎付近を中心に、鬼押出し園のある嬬恋村東南部等も含めた総称として使われてきた経緯や、バブル期にリゾート地として売り出された背景などもあり、長野原町の正式な字名となった。当時の新聞では軽井沢町内と比較されて取り上げられた。バブル期には紀州鉄道など後発の企業も開発に参入、大規模なホテルやゴルフ場などの施設が増え、リゾートマンションも建設されたが、軽井沢町内と異なりバブル期以降大規模開発の波は沈静化した。リゾートとしての人気は観光地化した軽井沢町内に集中していることから、軽井沢町内に比べ旧来の避暑地・開拓地としての鄙びた雰囲気を維持している。
「手つかずの自然を堪能できる北軽井沢」
開拓以来の農家が点在し、農場・牧場が広がっているほか、軽井沢町内では行われていないクラインガルテン(「滞在型市民農園」)もある。大規模な商業施設はなく、未開発の原野や未舗装道路も残されている。